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06061

楡山神社 にれやまじんじゃ 公式ホームページ 深谷市

楡山神社
鎮座地 深谷市原郷336
内容 ホームページあり
電話番号 048-571-2018(宮司宅)
祭神 伊邪那美命 (いざなみのみこと)
お祭り 1月1日〜  初 詣 1月3日   元始祭(げんしさい) 10:00〜 2月節分(3日頃) 年越祭(としこしさい) 13:00〜21:00 3月3日 祈年祭(きねんさい)鎮火祭(ちんかさい)10:00〜 浦安の舞・豊栄の舞の奉納あり 4月15日 愛宕祭(あたごさい) 7月28日 道饗祭(どうきょうさい)八坂祭(やさかさい)14:00〜 10月20日 例祭(れいさい)10:00〜 浦安の舞・豊栄の舞の奉納あり 12月1日頃 神宮大麻頒布始め 12月31日 大祓(おほはらへ)15:00〜
御社名の由来は、御神域一帯に楡の木が多かったことによる。 当社の御神紋の「八咫烏(やたがらす)」は、初代神武天皇の東征の際、南紀の熊野から、翼の大きさ八尺余りの八咫烏の道案内で、大和に入ったといふ故事から、当社が熊野権現といはれた時代に定まったものともいはれる。  【御創立と沿革】  五代孝昭天皇の御代の御鎮座といふ言ひ伝へがあった。  大字原郷全域から東隣の大字東方の西部にかけて分布する木之本古墳群(木之本は小字名)は、奈良時代ごろのものといはれ、古くからひらけた土地であることをうかがはせる。現在の末社の天満天神社(富士浅間神社)や知知夫神社も、後世の創祀ではあるが、古墳の塚上に祀られてゐたものである。かつては境内の森の奥にも塚があり、「里人不入の地」といはれた。  延喜年間(平安時代)、醍醐天皇の御代に朝廷の法規などをまとめた書「延喜式」の「神名帳」の巻に、「武蔵国幡羅郡四座」のうちの一社「楡山神社」とある。すなはち朝廷より幣帛を賜った古社であり、「延喜式内社」といはれる。  旧原ノ郷村は、平安時代中期の北武蔵の武将・幡羅太郎道宗の再興になる地域である。神社の南西に史跡「幡羅太郎館趾」がある。当時から幡羅郡の総鎮守、幡羅郡總社といはれ、御社名を幡羅大神ともいった。  康平年間(1058〜1065)、源義家の奥州征伐の時、幡羅太郎道宗の長男の成田助高は、当社に立ち寄って戦勝を祈願したといふ。成田家は後に行田の忍城主となっていったが、当社は成田家代々の崇敬が篤かったといふ。  徳川時代には、旧社家の没落と共に別当天台宗東学院の管理する所となり、「熊野三社大権現」あるいは単に「熊野社」と呼ばれたこともあったが、「楡山熊野社」などとも言ひ、「楡山」の名も失はれてゐなかった。当時より節分の日の年越祭は盛大であり、「権現様の豆蒔」などともいはれた。  明治五年、旧入間県八大区の郷社に制定される。大正一二年県社に昇格。  大正二年、中絶してゐた年越祭を再興。戦中戦後の一時期は中断してゐたのだが、戦後に神職氏子の努力によって復興させ、毎年節分当日は巨万の賽客で賑はひ、追儺の神事や花火(戦前は「おだまき」と称した地域伝来の花火)などの行事が夜遅くまで続く。  昭和三十年代には楡山神社奉賛会を発足させ、基金を募り、社殿の修築や境内の整備に努力してきた。神社の西方の遊歩道は、深谷駅から延びる旧日本煉瓦工場の引込線跡に造られたものだが、深谷市観光協会により、当神社ほか「明治期の建造物を訪ねる散歩コース」に指定されてゐる。

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