子供を中心に新緑を愛でる端午の節供

端午の節句

 

5月5日は、子供の日で五節供の内の”端午の節供”と言います。5月の最初の午の日の意味で、「午」は発音が「五」に通ずることから重日思想(月数と日にちが一致する日)から特別に目出度い日と考えられました。

 

元は中国から伝わってきた行事で、この日に菖蒲や蓬を摘み、家や門に飾る風習があった。日本においては「日本書記」推古十九年(611)5月5日に「薬猟(と)りす」という記述が最初と言われています。宮中行事として行なわれた端午の節供の薬猟りでしたが、やがて走馬や騎射を行なう日となって行き、宮中の儀式は時代が下るにつれ武家や庶民に徐々に広がってゆきました。

 

端午の節供が武家や庶民に広まった要因には、日本の行事で古くから五月を「悪月」と呼び物忌みする習慣がありました。菖蒲と蓬で屋根を葺いた小屋を造り女性たちが忌みごもりをしたと言います。(菖蒲と蓬には、芳香があることから、昔から邪気を祓う力があると考えられていました)これは、田植えが始まる前に身を清めて豊作を祈った上で田植えを始めたのです。田植えの主役は女性で、実りを生み出す作業は「子を産む性」の女性との発想のようです。もともと女性の為のお祭りであった日本の行事と結びついて容易に定着していったものです。

 

端午の節句が男子の節句に変化したのは、武家社会に入り「菖蒲」が「尚武」に通じるとして、武家ではこの日に幟などを立てて子孫までの武運を祈るようになったからです。

 

端午の節供と言えば鯉のぼりや兜の武者人形ですが、江戸時代初期に武士の家では家の家紋や鍾馗(しょうき)(疫病を防ぐ中国の鬼神)の幟を立ててわが家の発展を願っていました。一方庶民も端午の節供を祝うようになり、武家の象徴の家紋入り幟に変わり「鯉の滝登り」で滝にまで出世する可能性のある魚を「鯉のぼり」に形を変えて子や孫までも繁栄するよう願ったのが始まりであります。

 

5月5日(端午の節供)には、新緑の中、鯉のぼり・五月人形を飾り、菖蒲・蓬(よもぎ)を掲げ菖蒲湯に入り、茅巻きを食べ家族皆でお祝いいたしましょう。

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